トランスポーター・キャンピングカー専門店 トヨタハイエース オグショー北海道代理店

函館散策を終えて国道5号線を北上・・・

2010年8月3日
2010年 「東海道・陸奥一人旅」 蝦夷地(えぞち)編


五稜郭にて五稜郭誕生から幕末の歴史を振り返った後・・・

函館の滞在時間はわずかでしたが札幌へ向けて出発!


森町駒ケ岳にて7回目の給油
走行距離337.2km
52リッター 
燃費6.48km

朝の予定では函館散策終了後に大沼公園をMTBで1週しようと思っていたのですが五稜郭タワーの見学が遅くなり断念・・・
国道5号線を札幌へ向かう途中に旧幕府軍海軍副総裁榎本武揚と土方歳三が上陸した地に立ち寄りました。


森町 鷲の木史跡公園


榎本軍鷲の木上陸地跡
案内標識には下記の事が書いてありました。
「明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(夕バ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天(かいてん)、蟠龍(はんりゅう)、長鯨(ちょうけい)、神速(じんそく)、鳳凰(ほうおう)、回春(かいしゅん)、大江(おおえ)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。
21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえて官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していく事になります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治二年五月の、函館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。」
 平成二年七月三十日
 森町教育委員会


榎本軍戦死者たちが眠っている鷲ノ木の墓地。
墓地は荒れていて手入れはあまりされていない状態・・・

ここで2羽のカラスが威嚇するように低空飛行で頭の上をかすめて何度も飛んできました。
これ以上この場所にいても危険と感じたのでデモカーまで戻りますが、デモカーまで戻る際にも何度も低空飛行で威嚇されました。
公園から出るまでカラスはデモカーの周りを飛んでいました。

今回と同じ事が
「日本最北端の一人旅 」
宗谷の歴史公園旧藩士の墓
でも2羽のカラスに襲われそうになりました。
多分、カラスは自分巣を守っていると思いますが墓地を守っているかのような出来事でした・・・

(|||ノ`□´)ノオオオォォォー!!(恐)

カラスの襲撃で滞在時間数分で札幌へ向けて出発!

車を走らせる事数十分・・・

八雲町にある山越内関所跡地へ立ち寄りました。


山越内関所跡地
当時、この山越は和人とアイヌの地の境で、東蝦夷地への人の出入りを監視する場所でした。
享和元年(1801)に亀田(現在は函館市)にあった関門が山越内に移され、「山越内関門」が置かれた。
この関門は日本最北に位置し蝦夷地への武器の持ち込みの取り締まりや通行人の往来切手改めが行われ文久元年(1861)に廃止された。


山越の夜泣き石
関所が設置されていた時代に、罪人を切るために腰をかけさせたと言い伝えられている石。
真夜中、関所の裏の方からしくしくと人のしのび泣く声が聞こえてくるので、関所の番人が不思議に思って行ってみると、暗闇の中に人がうずくまっているように見えた。
番人がそっと近づいてみると、それは罪人が切られるときに腰をかける石で、しくしくというその泣き声は石の下から聞こえてきていたと伝えられています。
山越内関所は文久元年(1861年)に廃止されたが、夜泣き石だけは処分されずに残された。石は血の跡で黒ずんでおり、血染めの石ともいわれ、戦後ようやく今の形に保存されるようになった。

写真はシャッタースピードを遅くして撮影しているので明るく感じますが、ここに到着したのは夕方で薄暗く不気味な感じでした・・・

ヽ(ヽ ̄□ ̄))))) ヒイィィィ!!!

ここも長居せずに札幌へ・・・

すでに無料高速が伸びているのに高速に乗らず国道5号線を走っているのには理由が・・・