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静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の一

2010年8月5日
静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング


静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」を歴史や人物を振り返りながらご紹介します。


ここでサイクリングKIT(チューブ・パンク修理キット・タイヤレバーetc)を取付しました。
鍵はオグショー佐々木君の私物を借りました。


「徳川家康の散歩道」とは?
駿遠征服の拠点として、浜松城に居を構えた家康。在城17年の間には、三方ヶ原合戦の敗北、妻築山御前の死など、さまざまな試練があったと伝えられています。そんな家康にまつわる市内の歴史旧跡を結んだのが「家康の散歩道」です。

徒歩で所要時間約4時間位の散歩道ということでしたので自転車なので2時間くらい・・・
午前中に時間を見つけて昼までには終わるだろう・・・
という安易な考えで・・・


浜松城駐車場にて簡単な地図を頂いて「徳川家康の散歩道」ポタリングスタート!


浜松市内には自転車専用道路も完備されていました。
さすが二輪の街!


第一ポイント
二代目将軍徳川秀忠公誕生の井戸
順調です♪






二代目将軍徳川秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸の跡。
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)とは
生誕 天正7年4月7日(1579年5月2日)
死没 寛永9年1月24日(1632年3月14日)
徳川家康の三男として、遠江国浜松に生まれ、乳母大姥局によって養育される。
母は側室の西郷局。
母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河国の有力な国人であった。

同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の・秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。
秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を授けられ、「江戸中納言」と称した。

天正18年(1590年)、秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。
文禄4年(1595年)には織田信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は信長の妹市で姉が秀吉の側室淀殿)と再婚。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の本戦には参加できなかった。
近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている(家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。
律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。




第二ポイント
椿姫観音(つばきひめかんのん)
こじんまりしていて探すのに少し苦労しました・・・




引間城(曳馬城)の女城主お田鶴の方を祀った観音様
飯尾豊前守乗竜の後を継いで第五代引間城主となったお田鶴の方を祀っているのが椿姫観音です。
お田鶴の方が女城主となった引間城は、永禄11年(1568年)に徳川家康に攻められて落城しました。
お田鶴の方は最後まで戦い、討ち死にしてしまいます。
この戦いぶりに感動した徳川家康は塚を築いてお田鶴の方を手厚く葬り、家康の正妻、築山御前は塚の周りに椿を植えました。
この椿が名前の由来となり、お田鶴の方は椿姫と呼ばれるようになりました。


ご近所の方だと思うのですが観音様の周りにはお花が沢山でした。

続いて


第三ポイント
東照宮(引間城跡)




曳馬城址(引間城址)
浜松城の前身の引間城跡
引間城(ひくまじょう)
創築年、創建者とも諸説があるようですが、一般的には『宗長手記』にも登場する吉良氏家臣の巨海新左衛門(おおみしんざえもん)が築いたとされています。
この後、歴史上に登場するようになったのは、明応3年(1494年)今川氏親が遠江に侵攻を開始してからで、文亀元年(1501年)頃からは斯波氏と直接対戦し、文亀3年(1503年)には浜名湖周辺を制圧する程の勢いでした。

永正13年(1516年)には、斯波氏の家臣である引間城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)を滅ぼし、遠江の完全制覇を成し遂げました。
この攻撃の勝因は、安部山の金堀衆を動員し、井戸を枯らす作戦が成功したことによります。
今川氏親は、城主に飯尾賢連(いいおかたつら)を置き、その後、乗連(のりつら)連竜(つらたつ)の三代が在城したことが、『糀屋記録』に記されています。

永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間で討ち死にし、西から松平元康(家康)が遠江に力を伸ばして来ると、連竜は今川氏真を見限り元康と通じてしまいます。
それにより、永禄6年と7年に今川氏真から攻撃を受けますが、これを防ぎ講和という形で一応収まります。
しかし、永禄8年(1565年)、駿府に呼ばれた連竜は暗殺されてしまいます。

その後、城代の江馬安芸守泰顕(やすあき)と同加賀守時成が守りますが、永禄11年(1568年)に内紛が起こり一旦は滅亡します。
同年12月、この機に家康は重臣酒井忠次に命じ、城を奪取することに成功したと『浜松御在城記』に記されています。

歴史を振り返ると
椿姫観音(つばきひめかんのん)
引間城(曳馬城)の女城主お田鶴の方は最後まで戦い、討ち死にしたのがこの場所なんですね。






静岡県浜松市にある東照宮は、明治19年(1886)、引間城跡に創建された徳川家康を祭神とする社です。

東照宮について
徳川家康を祀った神社を東照宮と称します。
家康が元和2年(1616)に死去すると、その遺体は久能山(静岡)に葬られ、墓前に社殿が造立されました。
そして翌年、朝廷から東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号がさずけられ、東照宮と称するようになりました。
次に御霊の一部を日光(栃木)に移し、日光にも東照宮が建てられました。
また、江戸城内や、御三家の城下である名古屋・水戸・和歌山、徳川氏ゆかりの地である世良田(群馬)・鳳来寺(愛知)・岡崎(愛知)などにも造立されました。
さらに各藩でも東照宮を建てるものが多く、家康と関係の深い天海(てんかい)や崇伝(すうでん)らによって、寛永寺・増上寺・喜多院(仙波東照宮)・南禅寺などにも設けられ、江戸時代には全国で500社を超える東照宮が造られました。
しかし、明治維新以後は廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社ほどになりました。


第四ポイント
浜松城
は最後に見ることにして通過・・・