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静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング 其の弐

2010年8月5日

静岡県浜松市内散策「徳川家康の散歩道」ポタリング


遠州鉄道奥山線跡地の遊歩道を通って次の目的地へ


亀山トンネル








遠州鉄道奥山線とは
奥山線(おくやません)は、かつて静岡県西部、浜松市の遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から三方原台地を北上して国鉄二俣線金指駅を経由し、引佐町(現・浜松市)の奥山駅に達していた、遠州鉄道の鉄道路線。軌間762mmの軽便鉄道。
元は浜松鉄道(開業当時は濱松軽便鉄道)という、遠州鉄道とは別の私鉄だったが、戦後に吸収され遠州鉄道奥山線となった。
また1950年に途中の曳馬野まで電化され、曳馬野以北からの気動車と併結運転(協調運転ではない)したりもしていた。
戦後のモータリゼーション到来により業績を落とし、1963年(昭和38年)の区間廃止を経て、翌1964年に全線廃止された。






地元浜松の人も知っている人が少ない遠州鉄道奥山線跡地遊歩道でした!




第六ポイント
本多肥後守忠真の碑

( ̄_ ̄|||)
ここにたどり着くのに道を間違ってしまいおもいっきり坂を下りてしまい・・・
苦痛のサイクリングの始まりでした・・・


気を取り戻して散策♪


本多肥後守忠真の碑


この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。本多忠真は徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。
本多忠真は三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました、道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろには一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しました。
父の最期を前にし友が次々と死んでいくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家、徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦いで功績を残したことが記されています。また碑の題字「表忠彰義之碑」は徳川家16代家達公によって書かれています。
(看板資料より)


本多肥後守忠真の碑の横に・・・


ねずみ小僧次郎吉の墓

Σ(゚д゚;) ヌオォ!?

ねずみ小僧次郎吉
鼠小僧(ねずみこぞう、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は化政期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。
舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として生まれる。
10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰った。その後は鳶人足となったが賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染める。
文政6年(1823年)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回におよび文政8年(1825年)に土浦藩藩主である土屋相模守彦直の屋敷に忍び込んだ所を捕縛され南町奉行所の尋問を受けるが、初めて盗みに入ったと嘘をついて切り抜け入墨を入れられ中追放の刑を受ける。

一時は上方へ姿を消し、江戸に密かに舞い戻ってからは父親の住んでいる長屋に身を寄せる。
しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業に舞い戻る。

その後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに天保3年5月5日(1832年6月3日)(日付については8日(6日)などの諸説あり)、日本橋浜町にある小幡藩主・松平宮内少輔忠恵の屋敷で捕縛される。
北町奉行・榊原忠之の尋問に対し盗んだ金銭の総額については3000両以上と鼠小僧は供述したが本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。

3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。
この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は武士階級の面子を潰された恨みの産物という見方もできる。なお市中引き回し時の鼠小僧は美しい着物を身に付け、薄化粧をして口紅まで注していたという。

処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。

ねずみ小僧次郎吉の墓は東京の両国にあるのが有名で、ねずみ小僧次郎吉の墓となっていますが御骨は無く供養塔という噂。昔
この地区はばくち打ちが多くねずみ小僧次郎吉にあやかろうと供養塔を立てたと言われています。